宮元啓一先生の講話

suijuan2007-10-08

どうも10月に入った途端、皆さんのブログの
更新率が下がるような気がする。
もっと、しっかり更新してもらいたい。
なんて威張れるほど更新していないばかりか
普段から更新頻度の低い私目でございます。



理由は解らないが、軒並み更新頻度が下がっ
ているその中で、「つらつら日暮し」さんや
「あれこれ随想記」さん「耳折れ兄弟」は
頑張っている。
しかも、面白い。
とても嬉しい。


さて、自分のブログである。ここ何日か書きかけで終わっている。
宮本先生のお話を聞いたり、東大の公開講座を聞きに行ったりしているので、書くネタには困らない。しかし、それらを書いているうちに他の用事が出来たりして完成に至らない。今日こそは完成させよう。


と言う訳で、先ずは築地本願寺から。
その日も東大の公開講座と日程が重なっていた。時間はずれているものの、移動の時間を考えると、どちらか一方にしたほうがよさそうだ。どちらも聞きたいが、公開講座のほうは、3ヶ月ほど後から東大のHPで講演録を見ることができる。それで、築地本願寺宮元啓一先生を選んだ。


宮元先生は、國學院大學の哲学科の教授でインド哲学がご専門。その解りやすい解説は、ともすれば迷妄の闇へ迷い込む私達の明るい道標となる。
初めて行った、築地本願寺の観光記は後回しにするとして、宮元先生の講義の内容をお話しよう。


のっけから先生は「ブッダの教えと言うものは、それほど難しいものではない、私達は三法印(三つの真理・諸行無常、諸法非我、涅槃寂静)の中の諸行無常と言うことを骨身に沁みて納得できれば良いのだと仰る。
今申し上げた三法印は、普通には二番目の諸法「非」我を諸法「無」我と言います。
これも宮本啓一先生の仰ることがもっともなので、原義どおり訳せば「非」になるのだそうです。詳しくは先生の御著書(沢山ありますが)などでお調べ下さい。


この後、初期原始仏教典から今回のテーマ「諸行無常」が説かれている部分を引用されていきます。
最後の質疑応答で、やはり出た「自力・他力」についての質問。忘れてはならないが築地本願寺と言えば「浄土真宗」の東の本山のようなものである。熱心な門徒の方が「他力」の話を聞きに来ておられる。

質問者「で、結局のところお釈迦様は「自力・他力」どちらを説かれていらっしゃるのでしょうか?」
宮元先生「自力です」
この件について宮本先生の掲示板に書いたら、以下のようなレスが付いた。
以下引用
>・・・築地本願寺での講演は今回で三度目ですが、毎回、「他力の立場としてはどう考えたらよいのか」という質問を受けます。あえて「宗教的」といいますが、宗教的には絶対他力主義はあると思いますが、現実のさまざまな局面で、そのような宗教的立場を貫くのは原理的に不可能かとも思います。宗教的な理屈はいくつでもあるでしょうが、目の前に困窮している人を助けようとすることまでも、これは自力でよくないとして拒絶することが、人間として認められるのか、他力主義の人にはよく考えていただきたいと、わたくしは思っています。
引用終わり。


私も先生と同じ意見です。
このほか本願寺の印刷物を読むと、どうしても他力でなくてはいけないらしい。
一例を挙げれば
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と言う言葉があります。この三句目は「自」と言う言葉がついているのですから「自ずから其の心を清くします」でなければ意味が通じないのに「自をとって、其の心を清くされます」と読むというのです。
何もそこまでやらなくても、と思いましたが皆さんはどのようにお考えでしょうか?